何かになりたい

ネタにするほか浮かばれない

蜃気楼

高千穂で妖怪に遭遇したというまとめを読んでいると、高千穂牧場のコーヒー牛乳を飲みたくなった。
セックスレス記録を更新し続ける彼氏が煙草を買いに行くというので、ついでにおつかいを頼んだ。
帰ってくるまでの空白を、だらだらとシャワーを浴びて埋める。増えた脂肪がレスを呼び寄せたのか、レスによる自棄で太ったのか、どっちが原因でどっちが結果なのか、私にはもう分からなくなっていた。
なかなか乾かない髪に苛立っていると、サムターンが回る音がした。半年前くらいまでは、この音がすると玄関まですっ飛んで出迎えに行ったものだが、今はもう億劫になっていた。
これをやり続けたところで同じ行動が返ってくる訳でもないし、ましてやレスが解消されるなんてこともない。
そもそも私はヤりたいのではなく、私が望むようにこの人が行動するのを待っているだけなんだ。
離れたくないし、愛してもいるが、以前のような私の全てではなくなっていた。
この人が居なくなっても、私は案外ピンピンして生きていくんだろうなと考えるようになった。淋しいとも思わなくなった自分を少し淋しく思った。


頼んだコーヒー牛乳は相変わらず素朴な味がした。これを好きな理由がやっとわかった。
母親が2リットルのピッチャーに作ってくれた、甘いコーヒー牛乳に色も味も似ていたからである。
インスタントコーヒーの匂い、湯気、攪拌するための割り箸、ピッチャーの底で擦れる大量の砂糖など、一瞬であの頃の記憶が蘇ってきた。
けろけろけろっぴのプラスチックのコップに、この母作のコーヒー牛乳を入れて、ボロい冷蔵庫の冷凍室で凍らせて食べたことも、飲み過ぎて腹を下したことも一緒に蘇る。

実家というのは、多くの人にとっては基地のような存在らしい。そこに帰れば実体の有る無しに関わらず安心が用意してある。
いつからか私の実家は陰惨な重苦しい事実そのものになっており、私がフツウであるためには、できる限り実家や育ちのことを忘れる必要があった。
気に食わなければ“貧乳”もとい私の頭を殴っていた姉も、そうやって自分はフツウだと言い聞かせて今教壇に立っているのだろう。あるいは、18年根を張り過ごしたあの家庭の、少しずつだが確かに存在するズレを免罪符にして、あの暴虐を合理化しているのかもしれない。
どれだけ綺麗に生きようとしても、結局同じ穴の狢だ。それが姉に送る呪詛。

日課のように魘される声と、痛みを訴える声と、機嫌を損なわないラインを見極めるためのあの冷え冷えとした感覚と、いろんなものが、本当はもっとあったはずの心温まる記憶を食い散らかしてしまったようだ。私は現在だけに焦点を合わせて生きなければ、そろそろ憎悪の永久機関になってしまう。


実家はもう上記の通り十字架みたいに重たい存在に成り下がってしまった。そして遠く離れた地で、彼氏の家に転がり込んで、衣食住、なんなら愛も揃っているだろう暮らしをしている。
彼氏はもっとも近い存在ではあるが、心の拠り所とは言い難い。“ちょっとずつのズレ”や、それに基づいた考えを言えば、重い話はやめよう、そう言うばかりだ。好いてくれているのは承知だし、経済的にかなり寄りかかってしまっているし、そこでさらに私の重苦しい感情の受け皿になれなんて、ないものねだりである。


気が休まる場所というのは蜃気楼みたいに、やっと見つけたと思ってもそこには無いものらしい。
また、地獄もまだ見ぬオアシスも、おそらく私の頭の中に存在するらしい。