何かになりたい

ネタにするほか浮かばれない

2025/05/15

家庭への期待値が高すぎるのかもしれない。
カウンセラーさんは、「それは普通の感覚だから大丈夫」と言ってくれる。普通という言葉に安堵する日が来るとは思わなかった。道理に適っている、という意味の普通に限るが。

何かになりたい というのは、
"わたし以外の"何かになりたいということだった。
自分でいることは疲れる。どうしても、苦しくなったり不安になったりする要素が多すぎて、疲れる。
いまでも、この感情はどこへ捨てたら良い?と思うことがある。

人を信じるのは難しい。
もっとも安全であるべき家庭で、たくさん期待してたくさん裏切られてきた。家族だからと見殺しにされ、家族なのに救われることはなかった。
近くなればなるほど、どうせ裏切るんでしょ、と思う悪癖が暴れる。仮定によって、先にダメージを食らっておこうというのだ。そうすれば、ダメージの総量が減って、最悪の事態が起きた瞬間の衝撃が、少しでも減衰されるだろうから。
しかしこの癖は、遅効性か即効性かの違いはあれど、毒劇物なのだ。常用するものではない。それしか救いのないときに最終的に使うものだ。
もうあの地獄とは手を切ったのだ。あとはわたしの頭の中に巣食うその残滓を、信じるという実践ただそれだけで、払いのけるしかない。
いまわたしと家庭を築くこの人は、地獄の案内人などではなく、わたしの心理的基地、味方なのだ。曇るな。翳るな。
覚悟がある人だから、信じ続けよう。わたしも覚悟を決めるのだ。覚悟のない人間のサンプルを引き合いに出すまでもない。

わたしでいることを肯定してくれた人たち。大事な人たち。
わたしであることは辞めようがないので、手入れして長持ちするようにしていくしかないのだ。それが大切にするということだ。

テトラポッド工場

テトラポッドは、サイズと重量が共に大きいために、設置箇所付近で製作されるという。
製造業のステレオタイプで考えると、生コンクリートのラインと型のラインが交差している様が浮かぶ。コンクリートが型に流されて、固められる。型から外されたばかりのほかほかのテトラポッドが列を為してやってくる。しかしこの光景は存在しないということだ。

痴呆ではなく、血の繋がりに絶対の信頼を置いているのだろう。折に触れて、面と向かってあるいは電話口で、姉との交流は本当に無理なのか?と問われる。毎回、絶対に無理と答える。
わたしがどんな暴力を受けてきたかあなたたちは知らないでしょ、と言うと、「知らない、でも平等に育てたつもりだ」と返ってきた。わたしは、そのときに諦めた。
具体的に何を諦めたのかわからないままだったが、つい最近ふとした瞬間に合点した。わたしは、あの後に「気付かなくてごめんね」の一言が欲しかったのだ。しかし、ついぞその言葉は出てこなかったので、この人たちから欲しい言動を引き出そうとすることを諦めたのだとわかった。

実家の人たちは、わたしに姉の愚痴を言いたがる。その中で、姉はどうやら出産にかこつけて欲しかった言動を得ようとしているらしかった。
諦めが悪く、かといってボールの投げ方を変えるでもなく、そういうところが嫌いだ。あの人たちにそんな善性を求めるな。お前にもないだろ。

愚痴を聞いたり、欲しそうな言葉を投げたり、ほかほかのテトラポッドをその場で拵えて、実家の人たちの機嫌を取ってきた。迫り来る波を減衰させることが出来ても、いずれ侵食されて砂になる。形を保てない。

誰の気持ちもわかるから、いや、わかるというのは傲慢だ。合っているかはわからないが、想像ができる。誰の気持ちも想像ができて、それでわたしの心が軋むので、距離を取るのが正しいのだ。心の平衡距離まで離れるのだ。それがこの地球上の単位で表せないほどでも。
「ありのまま愛してくれ。愛するとは、具体的には、自分が欲する言動を察して実行することだ」と姉はずっと叫んでる。言葉の体を成していないが、行動がずっとそう言ってる。お前は、わたしがありのままだったと思うか。
実家の人たちは、ただ徒に長く生きているわけではないので、姉の叫びがわかっている。わかっているが、常に期待に応えられるほど若くも柔くも賢くも、ましてや裕福でもない。
ありのままの形が違う人たちの、発信と受信の齟齬を、見せないでくれ。血の繋がりは目眩しだ。

人と良好な関係を築くためには思いやりが必要ではあるが、わたしはもう心捻じ曲げてまで愚痴を聞いたり相手の欲しそうな言葉を言ったりしない。
無理のない範囲で形や性状を変えて渡せるものが、その人の欲するものにできるだけ近いような、渡せないこともあるが、お互い様だねって笑えるような環境がほしい。

昇華の華の意味ってなんなの


普通とされていることそれこそがわたしにとってファンタジーだ。普通への解像度の低さ。ドラマのオフィスのシーンで、ずっとプリンターとシュレッダーと戦ってるみたいな。文章を書こうにも、エッセイの体から逃れられなさそうだ。主張が一貫して良いかもしれないけどな。


無邪気にピアノを弾く姿とああなってほしくないと言うときの翳るような姿とのゆらぎ。心臓が掴まれて握られるような感覚。
どちらにもルーツがあるが故に、どちらの味方をしてもしなくても罪悪感が生まれる。この子にはそんな経験をしてほしくないのだ。しなくて済むなら。
わたしを引き取ってくれた?親戚の気持ちはこんな感じだったのだろうか?
施してもらったのはわたしの方だ。ずっと熱中することで余計な隙間が生まれなかった。
所以が無邪気でも気遣いでもどっちでもありがたかった。気遣いでない方がわたしはさらに嬉しいのだが。
しなやかな芯を持つ人だから、どうか芯を無くさずにさらに素敵に育ってほしい。


日々煉瓦を積み重ねて、月一回くらいの頻度で蹴り飛ばしてぶっ壊して、また積み重ねている。寛解との距離は縮んでいるものの、依然としてうつである。元気になるための元気が出ない日。蹴り飛ばせる量よりも少しだけ多く重ねられたらいつか閾値に届くだろう。
自負として語る言葉でさらに壊れて、呼水は毒だったりして。


ルイーズブルジョワ展を見に行った。
家庭に流れる重々しい空気でさぞ息苦しかっただろうなあと、ぐっちゃり家庭育ちのソウルユニゾンが生じた。親が筋通ってないと子どもはしんどいよな。
父親のエピソードはほんわかした温かい思い出かと思ったら真逆で頭を抱えた。人との関わり方わかんなかったんだろーな。
感想の中にはなんであんなに世間に復讐したがっているのだろうというものも見られた。
トラウマの詳細は正直語りづらいから説明不足になりうるし、語っていたとしても展覧になるにあたって丸められているだろう。壁にステンシルされた言葉は意図が絞られすぎていたように思うし、たしかにそう見えてもおかしくないなあと思った。解説もそれは蛇足だろみたいな粗を感じるところもあった。
最終章では、矛盾や抑圧をなんとか噛み砕いて飲み込んで、芸術という形に昇華できたと示されていて、ある程度折り合いがついた状態で生涯を閉じたのだな、アンタ頑張ったよ!と思った。
芸術と関わって少しは報われたんだろうな。自身を示した作品の写真撮っとけばよかった。
地獄行って帰ってきたけど悪くなかったぜって、わたしもいつか言いたい。もうちょっとだと良いのだが。

ポンプに引かれて

辿り着くことはなかろうと合点した上で。
かといって誰に届けたいかもわからないままで。

あのニュース見るのつらい。
似た環境だったから変に共感してしまうのだろうか。

筋肉が動かないと痰も排出できないのだ。当たり前に咳き込み、気配を感じたら吐き出すその不快を取り除く行為が介助なしでできない。(路上に痰を吐き出すあいつらの喉こそ動かなくなってしまえばよい。)
2時間に1回の痰の吸引。技術が発展しているとはいえ準備も後片付けもある。
どんな形式でも、陰圧のチューブを喉に近づけることで吸引する。切開した喉に、生体組織に馴染むわけがない器具がついていて、痛そうだった。その器具が取れて、チューブを咥えて真空ポンプで吸う様も、楽には見えなかった。
当時は、目盛りが刻まれた吸引機と、滅菌済みと書かれたチューブの包装材をただ眺めるしかなかった。

もしかしたら、あの子は寝返りが打てなかったかもしれない。その場合は体勢の変更を訴える声か、あるいはアラームによって、これまた何時間?何分?間隔で起きる必要があっただろう。床ずれ、褥瘡ができてしまう。

振り返るとわたしの母親はずっと十分な睡眠を取れていなかった。寝ていても、何かに魘されていることが多かった。
魘される声と、身体の痛みを訴える声とで、わたしが目覚めたときは、体勢を変えに赴いたものだが、上手くできていたかはわからない。


母親からしたらいつでも綱渡りだ。
年中睡眠不足で、じゃあお金で解決したらいいじゃないと言われても定職に就けない。ケアが必要だから。
ほかの子供もガキだからすぐ風邪引いたり熱出したりする。障害があろうがなかろうが自我がある。それぞれを面倒見るのは大変だろう。自我の強い奴はわたしを見てくれ、あのとき見てくれなかったと騒ぐこともあろう。実際、騒いでる。現実的に勾配も付くだろうよ。わかってくれよ。

母、大変だったよね。そんなこんなでお金なんか貯まらないからずっと働かないといけない。当たり前に年金なんか口を糊するにも満たないだろ。昔、もっと力になれたらよかったけど幼くてできなくてごめん。
生かしてくれてありがとう。いくらぶれても生への針が戻るおかげで一応生きてるよ。
辛い思考回路から・いつでも重たい身体から抜けたいけど、動けるからまだ頑張るよ。でもわたしの生活でいっぱいで、これからの生活を援助できないよ。

それでいてわたしは、あのとき助けてくれなかったねってずっと恨んでる。ひっぱられてる。大変だった中で育てられたんだから感謝しろよ!という声と、あの邪智暴虐の傍観者だったんだから許すな!って叫ぶ声と、反対方向に手を引かれて身がちぎれかけてる。睡眠不足で判断も鈍ろう。でも、でも、わたしがあいつから受けた苦痛は、あなたが防ぐ責任があったんだ。
言い聞かせてる。感謝も恨みも同居して良いんだって自分に言い聞かせてる。そしたら引く手が緩む気がしてる。まじないとそう変わらない。

逮捕されたお母さん、やっと眠れるかな?法で裁かれることは免れないかもしれないが、自責の念で死ぬなよ。きょうだい児の母親でもあるんだから、これ以上彼らから家族を失わせるな。
きょうだい児、どうかいい福祉につながってくれ。君の人生を生きろ。きょうだいを亡くし、その責任を問われ母親が連れて行かれた。君たちは複雑な気持ちから逃れられないかもしれないが、感謝したいと思ったら素直に感謝するんだよ。その気持ちは、保存していいし、表出していいよ。恨みや怒りが湧くときもあるだろうが、自分を壊すなよ。
感謝も許せない気持ちも同居していいんだ。どっちかに無理やり自分を曲げるなよ。


この悲劇を持ち出して男性批判に展開しようとは思わない。ちゃんとしてる人もいるだろうから。

少なくとも、件のきょうだいの父親はなんだか透明だったようだ。事情は知らんから言及はやめる。庇う気は一切ないが、関わってたかどうか判断ができないから何もない。

わたしの父、お前わたしたちから逃げたな。
お前の顔は覚えられないし結びつく記憶もないが、死んでも尚許さない。手の形や血液型はお前から引き継いだかもしれないが、兄とわたしだけのものだ。

うつつつがなく

揺れる母子と文字起こしできない声をほんとうに他人事として観測してる。
不思議とみな似た周期で揺れている。観測し続ければいつか同期するのだろうか。
わたしもこうなれるのかな?と内部の少し離れたところから聞こえる。わかんねー。なってみるしかないよ。いつ?知らねー。こっちが知りたいよ。
生物としてプログラミングされた機能はちゃんと発現しているらしい。親になりたい。
夫と子どもと暮らしてみたい。
うつになるような人生を送っていたわたしにも、そのような希望が生まれるのだ。
わたしの幸せはわりと人並みの形をしているのかもしれない。ただちょっと障壁が高い。

全治何ヶ月と判断のつかないうつは、展望から具体性を奪うので、どうしていくのかと問われると、休む・できる限りとしか答えようがない。
眠るのは損傷した脳を回復させるためらしい。わかりやすく熱が出ているわけでもなく、わかりやすく頭かち割れてるわけでもなく、しかし病気である。ぐったりした人間がずっとぐったり寝ている様子しか表出しないのがつらい。海馬だか前頭前野だか扁桃体だかわからないが、局所的に治癒作用を高めるには何をしたら良いのだろう。
最近は睡眠導入剤の作用時間がまちまちだ。
誰か、もっと、局所に作用する脳の治療法を生み出してくれ。外科手術でも注射でもなんでも。わたしは健康になりたい。生み出す側に回る元気はない。
とか書いてたら光やら磁場での治療法がニュースに出てきた。ゴムひも理論か?

苦しいからビョーキなのか逆なのかわからないが、カウンセラーは後者だと言う。
過去や将来ではなくいまこの瞬間のことを考えましょうと言う。
ずっと後ろめたかった。押し殺すのがデフォルトで、その必要が、必要以上にない環境で、どう過ごしたら良いかわからなかった。かと言って心身の貧しさを再生産もしたくなかった。
わたしは、ちゃんと、この心身でたくさんのことを楽しめるようになりたい。


・・・・・・・


ここ最近はそれなりに調子が良い。
相変わらず眠気と共に日々を過ごしているが、重たくのしかかる絶望は影を潜めている。
文字が読める。意味がわかる。健康のわかりやすい指標だ。

夫に教えてもらいながら、初めてクルーザー(街乗り?のスケボーらしい)に乗った。
夫は人に教えるのが上手い。出来たら一緒に喜んでくれ、たくさん笑う。
自分の身体を考えた通りに操るのは難しいが、滑らかに動く板と共に、物体になりきる。紙面と垂直方向の力も考慮に入れなければ。
あまりに力むと乗り切れない。わたしは落ちて、ボードだけが打ち出されて滑らかに遠ざかっていく。
ずっと硬直していた膝が緩んだときに、ふと足が乗る。進もうと思い、意の通り、実際に進む。後ろ髪は引かれない。後ろ指もさされない。誰もそこに留めようとしない。
落ちても受け止めてくれる人がいる。
受け止めてほしい人が受け止めてくれる。

ふたりで良い汗をかいて帰った。臥せっていることの多いわたしにはたいへん刺激的な経験であった。すこし前の話であるが。


うつは散歩をせよという。夫が表彰され、その恩恵にあずかり旅行に連れていっていただいた。
地球の反対への散歩。
確変が起こらない限り二度と行けないだろう綺麗な場所で、光と風を感じながら、穏やかに過ごす。
初めましてのみなさんとお話する。夫の生きる世界を少し知る。刺激と安寧の旅行であった。

反動でヘルニア、風邪、結膜炎を患った。しかし、治る見込みがはっきりしている病気たちなので、薬を飲み安静にする、ただそれだけの回復RTAである。

この表彰されるべき1年を、わたしはほとんど画面越しにしか知らない。たとえ何らか支えになっていたとして、ほんとうに近くにいた人間に比べたら、ひとつまみも寄与していないだろう。
これからもそうやって働けるように、それでいてわたしみたいに壊れないように、何ができるだろうか。錆びついてギシギシいう動きにくい脳だが、わたしが獲得した優しさはきっと心の方から出てきてくれるだろう。わたしが感じさせたくない寂しさはきっと回避することができるだろう。わたし本体に対峙してくれる人。わたしを家族としてくれた人。もっと大事にしたい。もっとこの共同体を良くしたい。


喜びをタンパク質の記憶媒体に書き込むのだ。容量は決まっているから、邪魔なトラウマから上書きしていくのだ。
そしたらきっとつつがない日常が手に入る。信じてやるしかない。

L'aphoooooorisme décadant

アフォリズムってなんか情けなく聞こえるんだよな。短文ですぱっと表現する技法と、腑抜けた響きのミスマッチかな。日本語話者だからと思うんだけど。デカダンもミスマッチ。

発音間違えて騒いでる

直方体に充満する緊張感に耐えかねたのか、同僚がやんごとなき人に話しかけた。怠いからやめてくれや…帰りたいのに…と思ったが、わたしはなんでもない会話でも何かしら掴み取ろうとする気概を持ち合わせているので、(居合わせた責任も感じて、)しっかりやりとりを聞く。反応する。例の闘争を踏襲しているのだという。わたしにとっては小林多喜二の世界。倫理が悪しき閾値をゆうに超越していた時代。肉体労働者のアンセムと思って読んでいた物語をここで思い出すとは。隠遁された情熱に関しても知ったな。わたしはこうやって記憶の引き出しを開けて中身を見ることに喜びを感じる性質なのだ。不遇にも立会人となってしまった他の人は、見るからに困っていた。同僚にはタイミングについて反省してほしいが、わたしとしてはまあ悪くなかったかな。いや、その後いつもに増して爆速で歩いて帰ったんだった。レギュレーションがないから実質走ってたかもしれない。両足が浮いたらだめなんだっけ。わたしにはわからない厳密なレギュレーションの上をせかせか歩く人たちが浮かぶ。脳内のサジェストに乗っかって、死のロングウォークを思い出す。止まったら死ぬ。歩みを進める。そして内的世界に深く深く潜っていく…

誰かがこんな感じのことを言ってた。「暴力それ自体に正義かどうかの意味は無い。どのような目的で使うかによって正義かどうか決まる。」潔く詭弁でむしろ好感が持てる。何にでも適応できる、何でも代入できる構造をしている。仕事もこうやって押し切りたい。それっぽさでなんとなく濁すやり方。キメ顔で言えばいけるみたいな。あーでもわたし耐えられないと思うわ。言語表現を愛する者なので。ただ、論理めいたものを使ったことがないとは言わない。使わないとも言わない。生存に役立つこともあるのだ。

最適解を把握した。とくに定義ない可塑性の。交流して、持ってる情報がより好ましい状態になる。貴重な存在。一生言語で遊ぼう。

ぱっと見で識別できるのってせいぜい3種類くらいだから、ファッションの基礎として3色のセオリーがあるのだろうか。上下を決める。色を拾う。頭の中で組み立てる。実践して失敗だって判明してもそれはそれで面白い。

わたしがあの一文だけ拝借するなら、except for youを付け足すだろうなと思いながら、ジャケットを傾けては戻してその煌めきを眺めます。肩口に乗っているその星は、他の人には単なる箔押しのデザインですが、わたしには大事な記憶と共にあります。あなたも良い音楽に包まれてますか。

1と2と3と5のありがたみを感じてる

知らねーバグ押し付けられてどうしろってんだよ。博打だ博打。fatalなバグを持つ者としての怒り。あんたたちは確率の上に五体満足で立っている。その地面はほんとにアスファルトか?concreteか?筋肉が治らない、身体が動かないのは嫌なんだよ。会うたびに可動域狭まってんだよ。見たことあるかよ。同じ遺伝子。たまたま染色体が二つあっただけの話。あの手はわたしの手でもあるんだ。動かなくさせてたまるか。脳の異常なら受容体を変質させる。足りてないなら薬でも何でも飲んでやる。視界で火花散らしてぶっ倒れてる場合じゃないんだ。可動域が狭まらないように動かしとく。歩けるうちに歩くんだ。会えるときに会うんだ。

2024/06/17

自分にかかった呪いを対話して解く。何しても否定されて挑戦も楽な方へ諦めちゃったけど、いまは根拠なく否定する仮想敵はいない。表情を窺う必要はない。無限の解釈から怒りの端緒を探さなくて良い。わたしはなぜ怒ったのか伝えるように努める。なぜその感情に至ったのかできるだけ伝える。それが今後のわたしと、今までのわたしと似た寂しさを持った人への祈り。
一時的にスカラーになった呪力は、エネルギー保存則に従って一方向に排出する。その僅かな隙間に全て注ぎ込む。そこに絞ればあとは呪わなくて済む。人を嫌うのは疲れる。一人だけを嫌う。徹底的に。
ほかの世間の人たちは、判断すらしない。世間はいてもいなくてもわからない。
わたしの社会にいる人には礼節を持って、深入りしない。わたしは有限なので。ごく限られた好きな人たちに対して尽力する。

生理的嫌悪の一部は臨床的トラウマと確定しているので、然るべきタイミングで治療する。治らなくても生きにくいだけで、ある定義からしたら全く影響ないのだが。
カウンセリングを受けると落ちるのが怖いと伝えると、主治医曰く、落ちるのではなく、苛々するのだと。防衛機制としての硬直を、怒りに変えて消化するのだろう。
なぜ怒るのか。なぜ殴るのか。怖い。わからない。正解を知りたい。どうやって何を選んだら誰が喜ぶのか、わからない。提案しても怒らない?ってどこかの時点のわたしが言っている。怒らない人もいる。怒らない人が多い、大丈夫。環境が異常だったんだ。だいたい、誰が正常だというのだろう。何のパラメーターをピックアップするかだけだ。
パラメーターか。似た寂しさへの感受性は突き抜けている。なんとなくわかる。何が寂しかったか。何が悲しかったか。何が嬉しかったか。こっちを向いてくれること。こっちにだけ向くこと。付属物、ナンバリングの最後でなくて、従属でなくて、自分であること。認められること。比較されず、そのままで。認知できない誰かが選ばれることなく。
今からでも得られるよ。欲しかったあのときには戻れないけど。欲しかった人ではないだろうけど。完全一致はしないけど、一部同じ成分であれば渡せる。あなたが通る経路には、施錠してない。
伝わるか。いつか。

思い出した。あいつら語彙や表現を知らないから手が出るし黙り込んでんだ、って解釈して、そうならないように必死に身に付けたんだ。逃避だった。表現できないもどかしさを簡単に晴らす術として、暴力を選んだ可哀想な人たち。伝えないことで優位に立とうとする人たち。恐怖や悲しみから生き残るために駆動されてた言語能力。今は違う。語彙や表現と出会う喜び。新しい時空間に出会う術だ。作る術だ。